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三代目 堤 等琳(さんだいめ つつみ とうりん、生没年不詳)とは、江戸時代後期の町絵師。堤派を代表する絵師。 == 来歴 == 初代堤等琳または二代目堤等琳の門人。雪舟十三世の孫を称した。通称は吟二。字は雪館。江戸の人。『増補浮世絵類考』には姓氏の記述はないが、『浮世絵師伝』は本姓を月岡氏としている。ただしこれを二代目堤等琳の姓とする説も付記している。初め秋月、後に雪山、深川斎と号した。寛政(1789年 - 1801年)頃、主に狂歌本の挿絵、文化(1804年 - 1818年)期には滑稽本の挿絵を手がけている。さらに天保(1830年 - 1844年)頃には、絵馬や幟絵、提灯絵などを描いた。また、町絵師としては珍しく法橋の位に就いている。 『増補浮世絵類考』に「浅草寺に韓信の額あり、秋月と云しを三代目等琳と改名せし時の筆なり、今猶存す、(中略)門人あまたあり、絵馬や職人、幟画職人、提灯屋職人、総て画を用る職分のものは、皆此門人となりて画法を学ぶもの多し」と述べられているように、絵馬や屏風などといった肉筆画を最も得意としていた。この三代目等琳を継いだ時に浅草寺に寄贈したといわれる「韓信股くぐり図」の絵馬が現存する他、雪山等琳の名を有する絵馬や、東京近郊や上総安房方面の寺社にて多々見かけることがある。さらに『増補浮世絵類考』において、堂舎の彩色を請け負ったり、貝細工などの見せ物までも手がけていたことが述べられているが、これは絵馬、幟絵などといった庶民的肉筆画を生業とする町絵師の元締め的な存在であったことを示していると思われる。反面、浮世絵師とは異なる町絵師という立場故か、狂歌絵本や摺物類以外の木版作品(錦絵)は殆ど残っていない。 葛飾北斎とは互いに意識し合う関係だったらしい。文化元年(1804年)に北斎が護国寺で大達磨を揮毫した際、等琳はその様子を見物して驚愕した話や、反対に北斎が浅草寺に掲げられた等琳の絵馬について門人の二代目北斎と批評したという逸話が残る。実作品を見ても、寛政から文化初年頃の北斎作品には、等琳風の漢画的描写が見受けられる。他にも『北斎骨法婦人集』序文によると、文政5年(1822年)春頃根岸御形松近くにあった等琳宅に一時北斎が同居していたという。更に北斎の娘・葛飾応為は等琳の門人・南沢等明に嫁している。これらの逸話から、両者には単なる同業者仲間を超えた深い交流があったことが窺える。 門人として月岡栄山、堤等栄、堤秋月、月岡幡羽、堤秋琳、堤等明らがおり、栄山、等栄、秋月には絵馬の作品が見られる。また、「五百羅漢図」で知られる狩野一信も、一時等琳に弟子入りしたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堤等琳 (3代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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